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二祖・峨山韶碩禅師について

峨山韶碩禅師

曹洞宗の教えを全国に発展させた。

總持寺の二祖として、「五哲(五院)」あるいは「二十五哲」と呼ばれた多くの優れた門弟を育成。

さらに、その多くの門弟が協力して、總持寺を維持し発展させるために住職を一定期間で交代させる「輪住制」を確立するなど、700年近くも前に、既に「人材育成」と「教団の将来ビジョン」に深い思いをもち、ただひたすらに總持寺の住職として42年間勤め、曹洞宗の教えを全国に展開する基盤を形成しました。

曹洞宗が、永平寺、總持寺の両大本山をはじめ、現在凡そ1万5千の寺院と2万5千人の僧侶、そして数百万人を超える檀信徒を要する国内最大の教団に至ったのは峨山禅師の功績によるものが大きいとされています。

峨山韶碩禅師の生涯

峨山韶碩禅師

【峨山韶碩禅師】
建治2(1276)年~貞治5(1366)年
鎌倉時代後期~南北朝時代 享年91
石川県能登の生まれ

今もふれられる峨山韶碩禅師

  • 峨山禅師 誕生地峨山禅師 誕生地
    峨山禅師は、鎌倉時代後期の建治2年(1276年)、石川県の河北郡津幡町字瓜生に生まれました。禅師の高い徳を敬い、大正14年(1925年)にその生涯地、瓜生に顕彰碑(功績や善行などを称えるために立てられる石碑)が建てられました。毎年6月23日には、顕彰碑の前で誕生祭が営まれています。
  • 瑩山紹瑾禅師との出会い瑩山紹瑾禅師との出会い
    峨山禅師は、16歳で比叡山延暦寺に登り、6年間天台宗を学びました。そして禅僧として名をあげていた瑩山禅師を京都に訪ね、問答を挑んだものの、その答えが理解できず、さらに諸国を遍歴しました。その後、再び瑩山禅師に参じ、そのもとで修業し、悟りを開きました。
  • 大本山永平寺の峨山石大本山永平寺の峨山石
    貞治2年(1363年)、曹洞宗の高祖・道元禅師の没後110年目、峨山禅師88歳の時、永平寺に報恩の拝登をされました。承陽殿前の石碑には峨山禅師の思いが刻まれています。それが峨山石です。
  • 大本山總持寺祖院大本山總持寺祖院
    元亨元年(1321年)、能登国櫛比庄、現在の石川県輪島市にあった「諸獄寺」を瑩山禅師が定賢律師より譲り受け、「總持寺」と命名して、開創されました。
    瑩山禅師は、永光寺を信仰と帰趨の地、總持寺を修業の源と考え、正中元年(1324年)、總持寺の住職を峨山禅師に譲りました。
  • 峨山道と洞谷山永光寺峨山道と洞谷山永光寺
    永光寺は、正和元年(1312年)に瑩山禅師によって開創された寺院の一つで、明峰素哲禅師をはじめ多くの優れた人材を輩出しました。峨山禅師は、後に永光寺を継ぎ、總持寺と永光寺の護持に努めていました。その時、往来した13里(53キロ)の山道を「峨山道(峨山往来)」と呼びます。
  • 峨山禅師の功績峨山禅師のご功績
    峨山禅師は、總持寺と永光寺の住職をつとめ、「人材育成」と「教団の将来ビジョン」に深い思いを持っていました。「五哲(五院)」あるいは「二十五哲」と呼ばれる優れた弟子を育成し、寺院運営の為に「輪住制」を実施したりするなど、全国に曹洞宗を広げる基礎を築きました。