鎌倉時代後期
文永元(1264)年 ●1歳

瑩山禅師木像
【瑩山禅師の歩み】
10月8日 ( 陽暦11月21日)越前国(福井県)において生誕。 幼名行生(ぎょうしょう)。
文永5(1268)年 ●(1)歳
【瑩山禅師の歩み】
越前国(福井県)において生誕。(58歳説)
文永8(1271)年 ●8歳

永平寺
【瑩山禅師の歩み】
4月8日 剃髪して永平寺第三世徹通義介禅師に参じ、永平寺第二世孤雲懐奘禅師の下で修行に励む。
文永11(1274)年
【時代背景】
文永の役(元寇一回目蒙古襲来)。
建治2(1276)年 ●13歳
【瑩山禅師の歩み】
2月13日 懐奘禅師について得度する。
弘安4(1281)年
【時代背景】
弘安の役(元寇二回目蒙古襲来)。
正応4(1291)年 ●28歳

城満寺
【瑩山禅師の歩み】
春 阿波国(徳島県)海部、城満(万)寺(じょうまんじ)の住職となる。
正応6(1293)年
【時代背景】
鎌倉大地震及び平禅門の乱。
永仁3(1295)年 ●32歳

東香山大乘寺
【瑩山禅師の歩み】
義介禅師の伝法を受け、大乗寺最初の首座(しゅそ)となる。
永仁5(1297)年
【時代背景】
鎌倉幕府が永仁の徳政令を出す。
永仁5(1297)年 ●34歳
【瑩山禅師の歩み】
後に弟子とする峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師と出会う。
永仁6(1298)年 ●35歳
【瑩山禅師の歩み】
夏 大乗寺の第二代住職となる。
永仁7(1299)年 ●36歳
【瑩山禅師の歩み】
春 大乗寺において峨山禅師と再会し、弟子にする。
正安2(1300)年 ●37歳

伝光録
【瑩山禅師の歩み】
正月 大乗寺において『伝光録(でんこうろく)』を教示する。
嘉元3(1305)年
【時代背景】
嘉元の乱(北条時村、宗方が殺害される)。
徳治2(1307)年 ●44歳
【瑩山禅師の歩み】
5月25日 母、懐観大姉がお亡くなりになる。正和3(1314)年説もある。
延慶2(1309)年 ●46歳
【瑩山禅師の歩み】
9月14日義介禅師がお亡くなりになる。
正和元(1312)年 ●49歳
【瑩山禅師の歩み】

洞谷山永光寺
春 海野三郎夫妻より能登酒井保の永光寺(ようこうじ)敷地を寄進され、翌年開創した とされる。
文保2(1318)年
【関連事項】
後醍醐天皇が即位する。
元亨元(1321)年 ●58歳

能登總持寺全景図
【瑩山禅師の歩み】
春、永光寺において諸岳観音堂の縁起の良い夢を見たのち、諸岳観音堂堂主、定賢律師(じ ょうけんりっし)の 懇情を受けて後の能登總持寺に入寺する。山門を建立し、『總持寺中興縁起』を著す。 夏、後醍醐天皇の十ヵ条の疑問にお答えになり、「總持寺」の額を賜る。
元亨2(1322)年 ●59歳
【瑩山禅師の歩み】
8月28日 後醍醐天皇より、「日本曹洞紫賜出世道場」の綸旨を賜り、永平寺とともに本寺とされる。
元亨3(1323)年 ●60歳
【瑩山禅師の歩み】
春 永光寺に伝灯院五老峰(でんとういんごろうほう)を建立する。
正中元(1324)年
【関連事項】
正中の変(後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画)。
正中元(1324)年 ●61歳
【瑩山禅師の歩み】
春 永光寺法堂(はっとう)を建立。總持寺僧堂を開単する。7月7日 總持寺住職を峨山禅師に譲る。
正中2(1325)年 ●62歳

明峰禅師
【瑩山禅師の歩み】
8月 永光寺を退き、明峰禅師に譲る旨を著す。 8月15日(陽暦9月29日) 永光寺に於いて大衆を集めて最期の説法をし、夜半にお亡くなりになる。(58歳説もある)